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My Music History 2

僕のピアノ歴、音楽歴 後編

【二十歳以降】
神戸大学在学当時、阪神・淡路大震災に被災した。
僕自身は何とか無事だったが、仲の良かった後輩を一人失った。
訃報を受けてから1-2ヶ月は、ずっとふさぎこんでいた。

長い冬が過ぎる間に電車も復旧し、3ヶ月後には大学に行くようになった。
その時に初めて大学の『軽音楽部JAZZ』に、4年生になってから入部した。
亡くなった後輩は遊佐未森の音楽が好きだった。
僕は「志半ばで散ったアイツの分までこの先の人生、楽しんで生きてやろう」と誓いを立て、何か自分にとって新しく、楽しんで取り組めそうなことは無いか探し始めた。
そうすることで「もう一人分の自分の人生」を並行して生きて行こう、と考えた。
浅はかな考えかもしれないが、それが僕なりに考え抜いた結論だった。
ちょうどその頃初めて観た小曽根実さん、真さん親子のチャリティコンサートでジャズの面白さに触れた僕は、気づけば大学の『軽音楽部JAZZ』の扉を叩いていた。

4年生には上手い子が多かった。
僕は4年生の新入生として異色の存在だったが、1〜2年生の子が割と仲良くしてくれた。
ジャズの魅力には、2〜3ヶ月ですっかりどハマりしてしまった。
たまに狙った通りの音を出せたり、少しずつ上達していくのが嬉しくて仕方ない。

【大学卒業後】
特に後半に様々な経験をした大学時代を終え、卒業後は地元の精密機器メーカーに就職し、その後静岡に転職。

大学卒業後も続けていたジャズに関しては、静岡に居を移してからもライブやセッションを重ねていた。
そんな中、2001年に浜松で開催された『小曽根真ジャズ・ワークショップ』に参加。
約1ヶ月間に渡って土日を丸ごと使用したイベントで、ワークショップの期間中、週末が楽しみで仕方なかった。
小曽根真さん、中村健吾さん(アシスタントとしてフル参加)のお二方の人柄に触れる度に、何か太陽のような暖かさを感じていた。
もちろん音そのものからも、それは感じていた。
本当に楽しかったワークショップが終わってしまった直後、「もし1年後、自分の中で音楽(ジャズ)への情熱が今と同じレベルで迸(ほとばし)っていれば、そこからでもいい。プロを目指してみよう。」と決意した。
そして1年後、変わらない情熱を感じていたので、30歳を過ぎてから脱サラをしてジャスピアニストになる一大決心をした。

【バークリー留学時代】
「1日10時間でも練習してやる!」という意気で、2006年から実際にその通りにバークリー音楽大学(Berklee College of Music)での留学生活を開始したが、いわゆるgifted/talented(才能に恵まれた、音楽の神に祝福を受けたとしか思えない者)、上には上がいることを実感し、自分の才能、能力の凡庸さに今更ながら凹む。

例えば当時在学中だった、学内でもトップクラスの実力者、Lawrence Fieldsというピアニストとたまたま話す機会があった時に質問してみた。

彼がピアノを始めたのは15歳から。
で、当時まだ4-5年しか経っていないはずなのに、もう世界のトップクラスのプレイヤーたちと共演して絶賛されている。

Lawrence のビジュアルをわかりやすく説明すると、のび太の肌を黒くして190cmくらいに縦に伸ばしたような風貌。
なのに、とにかくピアノの腕が信じられないほど凄い。

ちなみにLawrence が一番最初にコピーしたのは、Wynton Kellyだったとのこと。
それを聞いた後、僕も真似して、Wynton Kellyのコピーを1ヶ月間、続けてみた。
1ヶ月後に感じたこと。
僕が1ヶ月分進歩する間にLawrence は1年分進歩している。
同じ土俵で渡り合ったとしても、到底勝ち目がない。

これは戦う角度やポイントをずらして戦うしかない、と心底思い知った。

他の日本人で、まともに闘う意思を持った勇者(少なくとも学内最高のピアニストを目指す意思を持った生徒)は 1〜2名程度しかおらず、他の日本人ピアニストの多くは何か自分の得意分野で戦うことを余儀なくされた。
Lawrence の演奏にはそのくらいのインパクトがあった。
なんでこんな化け物がピアノ課にいるんだよ、と恨みもしたが、何のことはない、他の楽器は他の楽器で別の化け物がいるだけのことだった。

「自分が選んだのはバークリー。そんなのは当たり前のこと。自分は自分の中の最高の音楽を目指すのみ。」

Lawrence の件では、そんなことを再確認した。
結局バークリーでの留学生活は、「自分が本当に創りたい音楽、届けたい音について悩み続けた2年半」だった。

必死で『自分の音楽』を模索し続けて頑張った甲斐あって、専攻していた『Filmscoring Major』(映画音楽作曲科)の中で一番優秀な生徒に贈られる『Alf Clausen Aword』を受賞して、主席で卒業することができた。

【留学後】
留学を終えて、日本に戻ったのは34歳の時。

帰国後、ジャズピアニストとして、あるいは映像音楽(TV番組、ゲーム音楽)作曲家として活動している。
2012年以降はプログラマーとしても活動中。