Loading...

My Music History 1

僕のピアノ遍歴 前編

【幼少時代】
幼稚園でオルガン教室を受講。
小学校の入学直後から2年生の1学期の終わりまで、近所のスパルタ的な男性講師のピアノ教室に通った。
当時家にはまだピアノはなく、オルガンで練習していた。
スパルタ的な方法は最後まで肌に合わず、自分でやりたいと希望して始めたレッスンが嫌で仕方なかった。

【小学生〜大学生時代】
小学校2年から4年の約2年間、アフリカのタンザニア(キリマンジャロで有名な、アフリカ中東部、赤道直下の国)で暮らしていたため、その間ピアノのレッスンはおろか、鍵盤に触ることすらできなかった。
タンザニアでは後半の1年間くらい、アメリカ人の女性音楽教師Bowman先生から『音楽の自由さ』を教わった気がする。
今思い返してもあの人はピアノが上手かったと思う。
目の前でサン=サーンスの白鳥を弾いてくれた時には美しすぎて泣きそうになった。
日本への帰国後も、Bowman先生とはしばらく文通を続け、僕が大学2年の頃に一度実家を訪れてくれた。
その当時の日本ではまだ見たことのなかった「デンタルフロス」を勧められたのに、にべもなく却下したのと、頬へのキスを恥ずかしくて拒否してしまったことは今でもとても後悔している。

先生の滞在中、一緒に雨の京都に散策に行った日があった。雨がしとしと降る三十三間堂で、「晴れた日よりも、このくらいの雨の日の方が詫び寂びを感じる」と伝えると、「ワビサビって何?」と聞かれ、説明するのに5分以上かかった気がする。
先生が僕の拙い英語の説明でワビサビについて正しく理解してくれたかどうかは謎だが、とにかく素晴らしい先生だった。
(オリジナル曲『Wabi-Sabi』には、その時の思いが少し詰まっている)

話は戻って、小学校4年の2学期の日本への帰国後は、スパルタじゃない別のピアノ講師(40代後半くらいの女性)にピアノを習うようになる。
全く手本は示さない、という独特の手法のピアノ講師だったが、参考のレコード(ダニエル・バレンボイムなど)はたまに聴かせてくれた。
そこそこうまい生徒も多く、なぜか同じクラスに他に2人も同じピアノ教室に通っていた生徒がいた。
レッスンに慣れてきた頃、ヤマハのアップライトピアノを買ってもらった。
お店に行き、最終的には30万円、60万円、90万円の三台の中からいずれかを選ぶということになり、純粋に好きな音が出るピアノが60万円だったので、それを選んだ。
親は少しホッとしただろうか。
(本当に親に気を遣ったわけではない)

そのピアノ教室には最終的に高校3年の受験期直前まで通い続けた。
最後の発表会ではトリでショパンの『英雄ポロネーズ』を弾かされた。
練習は最後まであまり好きにはなれなかったが、ピアノの音自体は本当にずっと好きだった。

【中学時代】
ピアノ歴の説明を続けるため、一度中学に入った頃の話に戻るが、中学校に入っても周りに流されるようにサッカー部に入った。
本当はバスケ部に入りたかったが、突き指が怖くてやめた。
そのことを話すと大抵の人から一笑に付されるが、中学生になったばかりの僕は音大への進学をほんの少し考えていたので、インターネットでググることもできなかった当時、突き指は割と真剣に怖かった。

音大へ進むという選択肢を実質的に僕が諦めたのは、中学3年か高校1年の頃にテレビで放送された、何かの国際ピアノコンクールの出場者を追ったドキュメンタリー番組を観て、大きな衝撃を受けたことが原因だった。
非常に高い技術を持った若きピアニストたちが、コンテストのステージを重ねるたびに極限まで追い詰められていく様子がリアルに伝わって来た。

その番組をビデオで数回観た結果、「自分はクラシックピアノに関して、これほどまでの情熱は持てない」という結論に達し、一切家族には言わないままひっそりと音大受験を諦めた。
が、その後もピアノのレッスンは高3まで続けさせてもらった。許してくれた親と家族に感謝。

それ以降、僕がピアニストになれるなんて、万に一つもあり得ないと、心からそう思っていた。
1995年1月17日5時46分、僕が大学3年の時に体験した、あの悪夢としか言いようのない、阪神・淡路大震災が起こるまでは。

 Previous  All works Next